| 定家の庭 | |
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藤原定家(1162〜1241)は神経質で技巧的な歌人のイメージがあって、私は父の俊成卿のほうが好きだったが、堀田善衛氏による日記「明月記」の紹介(『定家明月記私抄』正・続)により、がぜん親しみ深い人となった。 『古今著聞集』には、内裏の八重桜の枝を接ぎ木しようとして折り取った話があり、定家の植物好きはよく知られていたようだ。彼の日記「明月記」には定家の庭の植物の話がたくさん出てくるそうだ。最後に住んだ一条京極の邸には、マキ・桧・松などの針葉樹と椿・橘・ミカン・ナンテン・ツツジなどの常緑樹が植えられていた。ナンテンは文献上の初出だそうである。また落葉樹では梅・桜・楓・しだれ柳・ハゼノキ・山吹・萩・牡丹などはいいとして、梨・桃・林檎などの実も楽しめる木もあるあたり、ちょっとおかしい。また竹や棕櫚といった異国趣味の植物も植わっていた。特に梅は八重のやら一重のやら、赤いのやら白いのやらたくさん集めていたという。120年ほどあとの「徒然草」で、定家が一重の梅を軒端近く植えのが残っているという記述がある。香りとともに風情も楽しんだのではないか。 定家は草花も好きだったようで、菊・撫子・フジバカマ・ススキ・桔梗・オミナエシ・朝顔など多彩である。こうした植物のなかには、八重のツツジや白萩・白菊といった当時としては新しい品種もあった。あたらしもの好きは、おおかたのガーデナーの病気のようなものである。後鳥羽院が検非違使の別当を遣わして定家の屋敷の柳二本を堀取っていったのに憤り、それが後に「道のべの野原の柳したもえぬあはれ歎の煙くらべに」という歌につながり、院の勘気を被ることになったことが、掘田氏の著書に紹介されている。激しいところがあるひとなのだ。 定家の歌には荒れ果てた庭に可憐な花を取り合わせた「廃園の美学」があるといわれる。平安時代の貴族の邸宅、寝殿造には、建物の前面に樹木や草花を植えた「前栽(せんざい)」が登場し、遣水のあたりにも野の花を植えて、秋の野に擬す趣向も流行した。しかし『作庭記』を読めば、それがいかに計算されつくした「しつらえ」、日本的美意識の昇華であったかわかる。 |
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