home>私の庭で>水仙の花 戻る
水仙の花

 水仙の花が好きだというと、にやにやされることが多い。ギリシャ神話では、泉に写る自分の美しさにうっとりと恋した末に死んでしまった青年ナルシスを森の妖精だか何かが哀れんで水仙の花に変えたというので、「水仙好き」イコール「ナルシスト」という風に思われるらしい。
 まあそれはそれとして、私が水仙の花が好きになったのは、大人になってからである。水仙が花咲く二月三月というのは、大学に関わる職業の人間にとっては入試やら卒業やら年度末やら、一度に仕事が束になってやってくる最悪の季節で、気の弱い私などはストレスたまりまくりの曇りきった日々が続く。そんな日々に、風の便りに届く和歌山やら淡路島やらに咲き出すあの鮮烈なまでの黄色とすばらしい芳香が、なつかしくて恋しくて。
とりわけ、あの水仙の香りは、たぶん地上で一番好きな香りの一つである。五月のブナの樹の若葉の匂い、秋山の枯葉が分解する土の香、太陽で暖まった猫の毛皮の匂いと同じように、とてもなつかしくとてもせつない匂い、繰り返しくりかえし記憶のなかで反復して確かめられ、記憶を喚起してきた匂いなのである。私は去る春に和歌山の串本の海岸で嗅いだ枯れかけた水仙の花の匂いとともに、その時に感じた幸せな感情をたぶん一生忘れないと思う。
 こうした匂いに対する好みや感覚を、歴史学は長らくなおざりにしてきた。ーそれは本能に属するもので、歴史のあつかうテーマではない、というわけである。しかし社会史の発達により、というより、社会の発達により、人間の感性は一定ではなく、歴史とともに変化し、また歴史を変えるものだということが明らかになってきている。
 フランスのアラン・コルバンは『においの歴史』(藤原書店)において、水仙の香りを考察し、十八〜十九世紀のヨーロッパ社会において、身体衛生の一定の発達とともに臭覚が洗練され、悪臭が忌避されるようになったこと、微妙な匂いの香水が流行したこと、そして庭園を作りそこで水仙をはじめとする花の香りを楽しむようになったことを記述している。近代人は、閉ざされた庭で水仙の花の香りに包まれるだけで、悪臭に満ちた現実社会を一瞬だけ逃れ、自我と自然との一体感や、人間として生まれてきた幸せを感じることができたのであるが、それはまさにナルシズムといってもよいものなのだろう。
 私もまた、そうした近代人=ナルシストの一人。水仙は西からシルクロードを通じて中国に伝わり、日本にも室町時代の辞書に「和名雪中華」として登場する。しかし園芸ブームであった江戸時代にはさして流行したようではない。日本には古くから橘と梅というすばらしい香りの伝統があった。そうしたことが理由なのだろうか。1999.02