千畳や 万畳の 鳥おひがまいりてしらげもよねやろが じやうなら 福やとくが まゐりて 宿借り 侍が殿も 栄さかふる 御代もさかへまします お長者の お庭に音のするハ 誰たれぞ 右大臣に左大臣に 関白様の 鳥追ひに 近衛さまの 鳥追ひ 東の方にハ酒井さまに 榊原 井伊に本多の鳥追ひ 松平の御ミ代ハ 万々セイの 御はんじよと いわい納めて 御めでたや
鳥追いは、正月15日を中心とする前後三日間の「小正月」の頃、早暁または夜に田畑の害鳥を追い散らすまじないとして行われた行事である。田畑の廻りで、板・棒・拍子木・太鼓などをたたいたり鳴らし、歌を唄って、鳥を追おうとした。旅行家としてしられる菅江真澄は、享和3年(1803)の秋田の大滝温泉の見聞記「秀酒企乃温濤(すすきのいでゆ)」において、正月15日の行事を次のように記している。
里の童どもの、星をかざし月をいただきておき出て、「あさ鳥ほほほ、ゆふ鳥ほほほ、長者どのの囲地(かくち)には、鳥もない囲地だ、やいわい、はたはた」と、しもとのごときものして雪を敲きつ、門ほ叩て、鳥追のためしありて、ひんがしは白みたり。
こうした農村の儀礼が、江戸時代上方では与次郎といわれた「非人」が笠をかぶり覆面をして、戸口でささらをすってならし、祝言を唱えては米や銭を貰い歩くことに転じたが、19世紀に入るとなくなったという。江戸では菅笠をかぶり三味線を弾いて小唄を歌う女性の門付芸として、大正頃まで残っていた。
平野屋武兵衛の記録した鳥追ひも、大坂で歌われた門付けの歌と考えられる。長者の庭云々は、先に挙げた秋田の歌とも共通する古い形であり、東西の有力者を挙げる例も多いのだが、公家や武門の具体名をあげて鳥を脅そうとしているのは、作為的というか、いかにも江戸太平風である。