天気、昨夜初夜前頃のことだが、天神橋の南詰めで大坂西町奉行所の与力で内山彦次郎が浪士7人に殺されたとのこと。この内山は筆頭与力であるが、いろいろ勝手に取り計らうため市中の人たちも困っていたので、いつかこうしたこともあろうかと思っていた。(張り紙の趣旨の写など略)
私にいわせてもらえば、以前天保年に御本家江森様に御用金が命じられた折り、これはよろしくない人だと思ったものだ。文化年間の御用金の利息もちゃらにされた上、天保の御用金はちゃんと手当を出すと内山様は言ったが、嘘八百。本家の文化御用金の額は一万両だったので、天保にも同額が命じられ、他の商人も同様で大坂市中は大困り、さてさて大当惑。難渋願・日延願など出してもどうにもならず、減額を願えば江戸からやってきた羽倉外記という御用金掛りの悪役人が何というかといえば、「ぜひとも百万両をこしらえなくてはならん、かれこれ文句をいうなら、財産を調べ上げ、帳簿なども提出させよ」と、本当に強情な人で、当時町奉行だった久須美佐渡守様も御困りだったという話もある。
ただ天保の御用金に関しては、これを出せば、大名貸の焦げ付きの返済を幕府が取り計らってくれるという噂があり、本家は他とはちがって日延願も減額願も出さなかった。ただ文化度は1万両であるが、今回は1万両も出すのはとても不可能なので、そのあたりの事情をきっちりお聞きただしの上、御用金額を決めてほしいと願書を出した。これは他とは違う趣旨の願出であったため、私は朝5ツ時奉行所の中之口へ参上し、初夜頃まで一人残って、それから内山様と私と直接「御押合」申上げ、そのあとは大手をふって惣年寄の薩摩屋仁兵衛方へかけあい、結局本家の御用金は百貫目ということで済んだ。その時のことを今思い出せば、とにかく口がたっしゃな奸佞な人であると思われる。あの日は大坂・堺・兵庫の町人が五、六百人もつめかけていて、彼らがすんで帰るまで私一人居残った。昼飯も夕飯も食べられず、えらい退屈だったよ。
西町奉行所与力30騎の内、内山彦次郎が新撰組に暗殺された時、武兵衛さんの感慨は深く、日記に天保御用金の際の回想を書き留めている。内山彦次郎は能吏としてしられた与力。大塩平八郎の蜂起の一件や国訴を行った摂河泉の農民たちへの恫喝や、天保改革の時の町奉行阿部遠江守の意見書の下案作りなどで有名であり、いろいろ噂も多い人だった。文化10年(1813)に御用日見習として17歳で出仕、与力役席のトップである諸御用調役となったのは天保14年(1843)、ちょうど御用金が賦課された年だった。
武兵衛さんの記録にも出てくる西町奉行久須美佐渡守は、「浪花の風」という大坂論を含む随筆などを残している人であるが、内山のことを「その性質の貞実堅固にしてしかも才機あり、大阪出生の者にてありながら身元宜しき町人共と懇意に仕らず役所にて御用向申談の外一切彼等を私邸に引き入れず。」と評している。譜代・御目見得にまで昇進するなど、なかなかの人物だったようだが、大坂町人となれあうことは避けていたようだ。
武兵衛さんは天保14年(1843)の御用金賦課の際に内山と会っており、どうも本家にかかる御用金額をめぐって内山と相当丁々発止とやったのではないだろうか。口が立つ、ずるがしこい人というのが感想である。しかし何となく自慢げな回想ぶりであるのは、そうした人とわたりあって、当初の1万両をほぼ6分の1の100貫目にまでねぎったという実績からではないだろうか。さすがというべきか。そもそも町奉行所側も町人のねぎり攻勢がわかっていて相当ふっかけているのか。
一ついえるのは、御用金政策は内山ら町奉行所の推進したものではなく、江戸幕府中央の施策であり、羽倉外記などの老中水野に近しい江戸役人がやってきて強行したことである。一番たちがわるいのは江戸のお役人である。武兵衛さんたち大坂町人もその辺の事情はよくわかっていた。また内山ら大坂の与力衆はいわば地付の侍であり、経済に明るく、大坂の町人のふところ事情もよくわかっていた。町奉行久須美は強硬な羽倉を但馬に行かせて、御用金掛となった内山や記録にある惣年寄薩摩屋らと御用金徴収をすすめた。しかし武兵衛さんと内山彦次郎の談判を想像すると、なんだか楽しくなってしまう。
内山が勤皇の志士ではなく、幕府側の新撰組に殺されたことは、興味深い。「壬生浪士始末記」では文久3年(1863)6月の蜆橋での新撰組隊士と相撲取との乱闘事件に際して、内山が近藤勇に対して、無礼討ちと届けたその真偽を厳しく問いただしたことがあったらしい。恨まれていたのだろうか。