慶応4年(1868)正月10日(『幕末維新大阪町人記録』(清文堂出版、1994年)所収「慶応四辰年日記」より、現代文に直し、長いので一部省略)

 天気。早朝に御堂さんに行ったが、門が閉まっていた。それで農人橋を渡って城代中屋敷に行った。みんな門からのぞき込んでいたが、私は1人入っていって外国人の応接間からトイレまで全部見学した(ちょっと自慢げ)。所々になんか毛が落ちていて(馬の毛か)、臭かった。それから馬場から大坂城の方に行くと、南側の家はほとんど焼けていた。玉造口の門は焼け残っていた。2、3人先に城内に入っていったので、私もそろそろ入っていくと、後から一人来て「向こうへ行ても叱りはしませぬか」と聞く。「叱る人はあるまいけれど、あぶないさかい、気をつけておいでなされ」と言い捨て、門内に入ると、あたりは一面の火事であった。門の東側の柱も下から30センチくらいしか残っていおらず、脱落した釘を二本記念に拾って帰った。

 それから玉造東坂を下り算盤橋に向かう途中のこと、北からどやどやと群衆がやってきた。見ると、蟻が物を引っ張るようにして、俵を持っていく男女あり、馬で運ぶ者、御膳に入れてかかげていく者と、思い思いに御城米を持って帰っている。しばらく見物していたが、算盤橋の方で黒煙が立ち、長州のお侍が数人北に向かったので、皆大慌てで南へ走っていった。これは油断ならんと玉造口に引き返したが、もう門のところには長州侍がいて中に入れないよう垣をしていた。城から出ようとする人を叱って、西へ回れと命じていた。あの人はちゃんと外へでられたのだろうか。家に帰る途中、今橋あたりで大砲の音と地響きがしたので、ふりかえると、火、そして黒煙がたつ。周囲の家からは人が飛び出してきて、びっくりした様子。今橋の御本家からも逗留中の御侍が出てきていた。本家でも、天満の自宅でも障子がはずれたとのこと。あとから聞いたところでは、あの爆発で米を取っていた人々が120??130人も即死したとか、煙硝蔵が爆発したらしいとか。節分なので、夕方豆まきしたが、天満天神も閉門していて厄払いの行事もない。夜は市中は静かだったが、夜通し城は燃え、ものすごかった。

 慶応4年(明治元年)正月、鳥羽伏見の合戦で敗退した幕府方は大坂から敗走した。7日には大坂城の役人も代官も奉行所の与力たちも逃げだし、夜大坂城は炎上した。それから数日、大坂は権力の空白地帯となり、人心は不安におののいた。9日にようやく京都から薩長方が入り、武兵衛さんも一安心、ぜんざいを食べて生き返ったような気分になったそうな。とすれば、せっかくのチャンスに、城代屋敷や御城を見学しない手はないと、10日にテクテク、見物にでかけた次第。同じような人もいたし、もっと多かったのは御城米を盗み出した人たち。なかなかたくましい。上の「 」のセリフはほぼ日記の原文どおり。大坂弁がいいですね。