弘化3年(1846)閏5月21日(『幕末維新大阪町人記録』(清文堂出版、1994年)所収「肥前鹿嶋様御国行日記」より意訳)

 朝、牛津を出発し、小田まて8キロほど行く。このあたりの人足たちの言葉はちっともわからない。特に女の言葉はちんぷんかんぷんだ。婆さんが子供をののしっているが何を言っているやら、奇々妙々である。/成瀬の手前、焼米という村に見事な池があった(ダムとアーチ橋か)。街道に石橋が高く作られていて、そこに上の池から瀧のように水が流れこんでいた。/このあたりはみんな裸足で、女は「髪くるくるまき」で、庭に立ったまま食事をする。佐賀の城下町といっても、15、6歳の年頃の娘が「ゆもじ」一つで、こちらの家から道むかいの家に走りこむありさま。「乱心」のようだ。
 小田から成瀬まで8キロ。ここから息子の午之助は駕籠に乗った。成瀬から塩田へは5キロ、山麓を通ったが、焼物作りの家ばかり多かった。染付けの中くらいの皿が銀4分くらい、ということである。この道中にいっしょに旅をしてきた鹿島藩士の定包氏のご子息など20人ばかり、迎えにきてくれた。/塩田では、道に大きな壺をたくさん見た。ここには川が流れていて、海まで続いているとのことである。昔、川に船が帆かけて走っているのを見て、旅の修行僧が狐にばかされているのかしらんと思ったくらいの山の中。
午後3時頃に貞包氏の家に無事ついた。親類の方が4、5人こられて酒宴になった。田沢殿、北御門殿といった藩士も途中で来られ、無事着いたお祝いの盃事となった。酩酊して、夜食後はすぐに寝た。今日は大変気温が高くて、「あつしあつし、蚊沢山沢山」。

 前回に引き続き、九州鹿島への商用旅行の旅日記から鹿島に無事ついた日の記録を紹介します。太宰府を19日に出発し、鹿島までは陸路で山中を3日。ナニワっ子の武兵衛さんはほとほといやになったようで、日記に、暑い、風がない、蚊と蚤が多い、荷馬がなかなかこない、食えるものがない、と文句を書き連ねています。この前日には佐賀の城下町を通りましたが、たいして感心もしなかったようで、家の上がり口に式台がない、家の多くは傾いていると書いています。鹿島に着いてほっとしたのか、酩酊して寝てしまった武兵衛さん、それでも寝苦しかったのか、しつこく、暑くて蚊が多いと書いています。
 都会と田舎の文化ギャップがうかがわれる記録です。武兵衛さんは特に、言葉と女性の風俗に注意して日記に書き付けています。髪を結わずにくるくると巻き付けて、裸足、下着で道を横断する、大胆不敵な肥前娘の田舎振りを、武兵衛さんは怖ろしげに書いています。