弘化3年(1846)閏5月6日(『幕末維新大阪町人記録』(清文堂出版、1994年)所収「肥前鹿嶋様御国行日記」より)


瑜伽山(由加山)蓮台寺

岡山児島半島にある蓮台寺は聖武天皇の天平5年に行基が開基したといわれる古刹で中世には今熊野として信仰を集めた。江戸時代には「コンピラさんにユーガさん」といわれ、瀬戸内海をはさんだ二社に詣ることがブームとなった。 岡山藩も保護して、富くじや遊芸も許され、百戸をこえる門前町が形成されていた。武兵衛さんは、東の玉野市日比の港から東参道を行ったようである。

日の出に日比浦に着船。そこから海岸ぞいに山を裏へ廻ると、立派な家が百軒ほどあった。山は鉢のような形で景色がよい。時雨れて、南風により浪が山に打ち寄せるのが、すがすがしい。船中の者は皆月代を剃った。ここで、こちという魚を買ったが、7本で600文という安さ。

朝飯後、10時頃から船の者と連れ立ち、9キロほど離れた瑜伽山に参詣した。正午頃到着すると、両側に茶屋が立ち並び、女中たちが呼び込みをしていた。64段の石段を上り、仁王門・石鳥居・銅鳥居・狛犬や塔、絵馬堂などを見物した。鐘楼では誰でも鐘をつくことができる。南の海の彼方には、四国讃岐の丸亀城や讃岐富士が見えて見事。

仁王門の内外に茶店や焼餅・あん餅を売る店が2、3軒あり、二時頃小綿屋清蔵という茶屋で昼飯を食べた。ここには女中が3、4人いて、三味線を持ってきて、30歳くらいの眉を墨で書いた女が、備前なまりながらしゃれて、大坂で流行った「おゆるしよしこの」を歌ってくれた。お銚子3、4に、肴は鯛片身のいり付、羊羹、おつくり、それに飯と鯛の小さな切身と高野豆腐・干瓢・しいたけの平・菜・たけのこの平がついた膳が8人前で、金1歩と銭300文と高かった。夕方、日比に停泊していた船に戻る。湯に入り、夕飯を食べてから出帆したが、西風強く浪が荒くなったので帆を下ろして与島に漕いでいき、一夜をそこであかした。

平野屋武兵衛は、この年閏5月3日に船頭6人乗りの船をチャーターし、息子や同行者とともに九州佐賀近くの鹿島藩に向かった。本家である平野屋孫兵衛が鹿島藩に貸付けた金に関する商用の旅であったが、往復とも金比羅や安芸宮島などの名所に寄りながらの1ヶ月半ほどのゆったりした旅だった。よい風を待ちながらの旅だったからである。

備前の瑜伽山は最初に訪れた名所である。食事の内容や金額に言及し、備前なまりの流行歌に注目しているのは、自分でも三味線を弾く経済人である武兵衛さんらしくて、おもしろい。「至て高直(値)」の肴代と「至て小切身」の鯛、という記述に、ぼってるんじゃないか、という不満がありあり。