毛馬堤上に記念碑 与謝蕪村は享保元年(1716)毛馬村の農家に生まれた。複雑な生い立ちであったといわれる。家を継いだが破産して、江戸に出て早野巴人に俳諧を学び、その後関東・東北を放浪して、俳諧と画を研鑽した。宝暦元年(1751)以降は京を本拠地として活動し、天明3年(1783)没。 蕪村は京という都市を愛したが、その俳諧には子供の頃の毛馬村の情景が描かれている。毛馬堤について、蕪村は書簡の中で「幼童之時、春色清和の日ニは心友どちと此堤ニのぼりて遊び候、水ニは上下の船アリ、堤ニハ往来の客あり」と、「懐旧のやるかたなき」気持を述べている。 毛馬村より対岸、北長柄村(大淀区)への毛馬渡 現在は毛馬橋が架かっている
毛馬堤上に記念碑
与謝蕪村は享保元年(1716)毛馬村の農家に生まれた。複雑な生い立ちであったといわれる。家を継いだが破産して、江戸に出て早野巴人に俳諧を学び、その後関東・東北を放浪して、俳諧と画を研鑽した。宝暦元年(1751)以降は京を本拠地として活動し、天明3年(1783)没。
蕪村は京という都市を愛したが、その俳諧には子供の頃の毛馬村の情景が描かれている。毛馬堤について、蕪村は書簡の中で「幼童之時、春色清和の日ニは心友どちと此堤ニのぼりて遊び候、水ニは上下の船アリ、堤ニハ往来の客あり」と、「懐旧のやるかたなき」気持を述べている。
毛馬村より対岸、北長柄村(大淀区)への毛馬渡
現在は毛馬橋が架かっている
大坂から毛馬を経て、河内のなつかしい人々へとたどる堤の道、河原の斜面を覆う花いばらや水際の芹、遠望される菜の花畑や麦畑、それは蕪村の原風景である。
やぶ入や浪花を出て長柄川
春風や堤長うして家遠し
故郷春深し行々て又行々
花いばら古郷の路に似たる哉
愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら
草霞み水に声なき日ぐれ哉
行春や漕とも見へぬ薪舟
舟よせて鹽魚買ふや岸の梅
菜の花や和泉河内へ小商
狐火やいづこ河内の麦畠