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江戸時代の「大坂」は、今の大阪市はもちろん、大阪市の中心部よりも小さくて、JR環状線の内側にすっぽり入ってしまう。行政的には、例外はあるが、淀川・大和川の支流である「大川」より北の「天満組」、船場の北部あたりの「北組」、そしていわゆる「ミナミ」の「南組」という「三郷」に分けられていた。武兵衛さんは、天満に住んで、船場を中心とした「北組」で仕事をしているが、しばしば「南組」や大坂近郊にも遊びやおまいりに出かけている。もちろん、地下鉄もなにもなく、駕籠はきらい。江戸時代には縦横に走っていた堀川を船で行くときもあったがそれは例外的。たいていどこへでも歩いていく。まあ一時間も歩けば、どこへでもいけてしまう、ゆったりのんびりした生活空間だったわけ。
今、近世の大坂のなごりはほとんど残っていない。堀川で地上に残っているのは東横堀と道頓堀だけで、近代のなつかしげな町並みや長屋なども消失しつつある。近代の大阪は工業・公害都市となり、労働者が流れ込んで粗悪な住環境が形成された一方で、古くから大坂に住んだ人々の多くは郊外に住宅地を求めて出ていった。こうしたいびつな近代を、今の大阪はひきづっているわけだ。もう一度、人々が住みたい町となること、それが大阪活性化の第一歩ではないだろうか。
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