天満にある肥前小城藩の蔵屋敷跡
中之島の蔵屋敷へ
平野屋孫兵衛は諸大名のお出入りとなって、大名貸の仕事をしていた。大名貸は江戸時代後期には低利で踏み倒しも多くさほど有利なものではなかったが、それでも大坂町人は債権があるかぎりは、腰を低くして、ねばり強く武士たちとちきあったのである。鴻池屋の御一統で町人学者として尊敬してやまない草間伊助先生は、こうした大坂人の太っ腹さを「義侠心」があると言っている。それでも腹のなかはどう思っていたことやら。武兵衛さん、明治元年に「相対(あいたい)盗人」と蔵屋敷の武士たちを日記の中でこき下ろしている。
幕末の日記によると、平野屋武兵衛は小城藩の担当者だったらしく、式日といわれる日には挨拶に出向き、そのあと新町や北新地の茶屋などに蔵屋敷の役人たちを連れて行っている。「芸子」といわれたきれいどころを招いて、ごちそうするのだ。いわゆる「御接待」である。たまには、こうした席で武兵衛さん自身、三味線の腕を披露することもあった。こうした接待も大事な仕事のうち、粋な武兵衛さんは適任だったにちがいない。