| おまいりする 生玉(いくたま、生国魂)神社 | |
![]() ![]() 米沢彦七の碑
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祭神は国土の霊といわれる生島神・足島神を主神として、大物主神を配祀。「延喜式」にも載る由緒のある神社である。古代には「難波大社」といわれ、朝廷と関係深く、平安から鎌倉にかけて難波津でおこなわれた八十島祭には生島巫も参加していた。元々は上町台地の北部に石山本願寺に近接してあり、本願寺の鎮守的立場だった。しかし天正年間に石山合戦で全焼し、豊臣秀吉が大坂城を建設するためにこの地に移されて社領を与えられ、慶長3年(1598)に豊臣秀頼により再建された。境内には聖徳太子作と伝承される本尊薬師如来をおさめた本殿、大師堂、太子堂、南坊など仏堂と、本殿、稲荷社などの神社が習合していた。 神宮寺として真言宗の法案寺があり、その別当南坊ほか多くの寺院があったが、神仏分離により他に出た。社殿は明治45年(1912)の「南地の大火」や昭和20年の戦災、同25年の風水害により被害をうけて再建を繰り返した。北門から千日前通りを通り高津宮表門筋へ下る道は生玉真言坂という。神社の東側表参道にあった蓮池は埋め立てられて生玉公園となり、馬場先といわれた表参道も谷町筋の拡張により分断されてしまって、今は江戸時代の面影は少ない。 南坊では、井原西鶴が延宝八年(一六八〇)に一昼夜四千句の独吟矢数俳諧を興行し、元禄七年(一六九四)の八朔祭礼には芭蕉が来て「菊に出て奈良と難波は宵月夜」とよみ、上方噺初期の名人米沢彦八も ここで興行している。 |