おまいりする お稲荷さん
 武兵衛さんは稲荷神を信じていたのかどうか。謎である。近世後期には稲荷信仰は幕府から人心を惑わすものとして警戒されていたし、西本願寺なども文政5年(1822)に摂津嶋上・嶋下十二日講に使僧を派遣し、屋敷内の稲荷などの諸神の小さな祠や神明をまつる神棚、門口の祈祷札などをの取り払いを命じたりしているが、反発も多かったという。その頃にはすでに稲荷信仰は人々の心に根をおろしていたのである。武兵衛さんも篤信の真宗門徒ではあるが、一方で世の中には不思議というものがあると言っているし、白粉を製造していた幕末には家に稲荷巫子らしき男が出入りしていて狐に対する寒施行までやっている。白粉や鍛冶屋など火を使う職業では、火除けのため稲荷神が信仰されていたのであるが、武兵衛さんも幕末の不安な政治状況の中で、どうにか安心を得たいと望んでいたと思う。


大坂とその周辺には稲荷社が多い。玉造稲荷社(豊津稲荷社)や博労稲荷社(難波神社)、西成郡加島稲荷社(香具波志神社)などは中世以来の古い由緒を持つ根生いの稲荷社があった。これらは産土神で収穫祭である秋祭を重視しており、農業神的性格を持っている。
 やがて近世前期に市街地の拡大と周囲の開発のため、狐が棲んだり古墳などの聖なる土地が拓かれて人間の侵入が始まると、そこには稲荷社が祀られるようになった。たとえば真田山にあった真田山三光神社などが有名である。
 さらに稲荷が流行神化するきざしを見せたのは18世紀半ば頃の宝暦明和の頃で、の奇譚や狐つきの話を伴っていたことが注目される。
こうした稲荷神の流行につれ、産土社系統の稲荷社もその農業神的性格を一定度変化させた。大坂市中の玉造稲荷社・博労稲荷社などでは祭礼を華やかに演出して、民衆を砂持に動員することで、その信仰を獲得していった。玉造稲荷社の寛政元年(1789)6月の砂持は、前代未聞といわれるほど人気を集めている。
 また蔵屋敷や個人の居宅に祀られた稲荷社などが流行して、参拝されるようになったものもある。土佐藩蔵屋敷の土佐稲荷や大坂南組惣年寄の安井家に祀られていた安井稲荷など。こうした稲荷社ははっきりした現世利益が信じられていたことが多く、こうしたご利益のある神祠のガイドブックさえでている。