竹田芝居

摂津名所図会」より竹田近江からくり芝居

延宝3年(1675)「蘆分舟」の道頓堀芝居の様子

17世紀後半の道頓堀の図では、竹田芝居は図の下方、道頓堀の南側の「浜側」にある。その向かいには三つの芝居小屋が描かれているが、一番左の小屋の看板には「狂言物まね」とある。これは承応2年(1653)に若衆歌舞伎が禁止されたことへの対応である。この時期には、歌舞伎の他にも浄瑠璃や舞や説経、珍鳥の見世物など多様な芸能の小屋がかかっていたことが「蘆分舟」の記述からわかる。


竹田のからくり芝居は、江戸時代にはこれをみなければ大坂に来たかいがない、といわれたほど有名。日本橋の近くにあった。もとは時計師だったといわれる竹田出雲(後、近江大掾)がからくり人形で名をあげて、寛文2年(1662)に大坂でからくり芝居を興行した。また彼は人形浄瑠璃竹本座の座元もつとめたことから、人形には多くのからくり技術が使用されることとなった。その座付き役者として、有名な近松門左衛門がいる。
左図のように、オランダ商館長の一行が江戸参府のため大坂を通行する際には、竹田のからくり芝居を観ることが多かった。正面にすわる洋服姿はオランダ商館長・医師、立ち上がって見ているのが書記。その後ろには通訳と黒っぽい羽織をきた大坂町奉行所の役人がいる。舞台では、太鼓の中からニワトリが出現。たしかにこれは伸びあがって、ようくみてみたくなる。
竹田からくり芝居の出し物には、「三段返り軽業人形」「人形三味線引くカラクリ」など、現在もからくり人形として残されているものもある。日本が室町時代頃から江戸時代初期にかけて中国やヨーロッパから伝わった技術をもとに、世界でも珍しい精巧な機械人形を作ったことはよく知られているが、大坂はその中心地でもあった。