| 商売繁盛 銅吹屋 | |
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近世大坂は世界へと開かれた、銅の町だった。銅は当時最重要の輸出品であり、元禄10年(1697)には世界最大の産出量であった。日本銅はオランダ・中国船によりアジアから遠くはヨーロッパまで運ばれ、貨幣や武器、日用雑器などに使用されたのである。その重要性から幕府は銅の統制を行い、銅の最終精錬は大坂に限った。 現在の住友グループの源流、泉屋住友は伊予の別子銅山を請け負って経営した山師として有名だが、銅吹屋としても江戸時代を通して業界トップの銅生産量を誇っていた。元和9年(1623)に理兵衛友以(1607〜62)が京都から大坂内淡路町に進出し、寛永13年(1636)・明暦元年(1655)・元禄元年(1688)の3次にわたって島之内の北東隅の長堀川南岸の茂左衛門町(中央区島之内1丁目)を東から順に購入し、銅吹所の開設・拡張と本宅の移転を行った。この長堀銅吹所は明治初年まで稼働し、『浪華百事談』には広大な敷地の表はすべて格子造りで、東横堀側や南側は高塀をめぐらしていること、「住友ノ浜」といわれる北側の長堀川河岸に珍しい掘り抜き井戸があることが書かれている。 幕末の長堀銅吹所には合わせ床・南蛮床・間吹床・灰吹床・小吹床など8種24床の精錬用の吹床があり、水洗いに使う沙物(ゆりもの)場や水槽、長堀川に通じる水の管や地下金庫とみられる穴蔵・土間・台所などがあった。その構造は実にシステマティックで、当時の日本としては最先端の工場であった。このことは1990年5月から翌年にかけておこなわれた長堀銅吹所跡の発掘調査でも確認され、銅産業が盛んであった江戸時代前期には幕末には屋敷となっている西の部分にも吹床があって、銅吹所はより広かったことがわかった。 長堀銅吹所については保存を望む運動がなされたが、結局住友銀行の計算機センターが上に建ち、跡地の一部に吹床と明治時代に作られたビリアード場が残されている。 |