江戸中期になると、銀質なのに金の単位である二朱の額面である計数貨幣、南鐐二朱判が発行され、話はますますややこしくなった。こんな怪しげな貨幣を造ったのには、幕府の金遣いによる全国統一の意図があったといわれており、幕府としてはばったもんでもニ朱はニ朱で使わせようとしたのだが、大坂ではみんな納得しなかったので、南鐐ニ朱判は金より安い銀への換算相場が建ったのである。
他にも大名などが発行した紙幣や商人の私札も多数でまわっており、本両替や銭屋はこうした多種多様な貨幣の両替を業務の一つとした。もっともその手数料は近世後期には安くなり、両替額の0.05%以下となっていた。その原因は貨幣総量が増加して、貨幣改鋳後などをのぞいて通常は金銭相場が低く安定していたことにある。また経済観念の発達した大坂では、素人でも商品代価に金を受け取って銀や銭でおつりをわたすような両替行為をふつうにやるようになり両替手数料の値下げ競争がおこったこと、またちょっとした商人なら本両替か銭屋のお得意さんとなって預金をして、現在の小切手にあたるような銀目の手形を発行し、それが広く流通したたるに現貨幣の両替行為の必要性が減ったということもあると思う。
いずれにしても貨幣両替はそれほどもうかるものではなかった。貨幣の先物取引もあったが、これも通常は大利があるようなものではなかったと考えている。