本両替の仕事 貨幣の両替
江戸時代の貨幣制度が金・銀・銭という三つの幕府貨幣が併存する複雑なものであることはよくしられている。金と銭は一枚いくらと数えられる計数貨幣、銀は棒状の丁銀と丸い小粒の豆板銀という形はあったが、重量がその価値となる秤量貨幣だった。そして東は金、西は銀が基準貨幣の役割をはたしていた。大坂では金1両イコール銀60匁、銭1貫文イコール銀10匁などと、銀で値付けをしたのである。


元文小判(造幣博物館)

小判1枚で金1両。元文改鋳は米将軍徳川吉宗の治世末期に行われた悪鋳として知られるが、正徳改鋳と享保飢饉で不況となった大坂経済を活性化した。



宝永四ツ宝丁銀(造幣博物館)

宝永8年(1711)に発行された丁銀であり、慶長銀に比べて質が悪かった。



南鐐二朱判(造幣博物館)

安永元年(1772)に発行された1枚金2朱の貨幣。16枚で1両となる。材質は銀であり、丁銀・豆板銀を鋳つぶして作られたたために、江戸時代後期には銀の流通量が減少した。質的には金2朱に及ばなかったので、大坂では2朱としては通用しなかった。

江戸中期になると、銀質なのに金の単位である二朱の額面である計数貨幣、南鐐二朱判が発行され、話はますますややこしくなった。こんな怪しげな貨幣を造ったのには、幕府の金遣いによる全国統一の意図があったといわれており、幕府としてはばったもんでもニ朱はニ朱で使わせようとしたのだが、大坂ではみんな納得しなかったので、南鐐ニ朱判は金より安い銀への換算相場が建ったのである。

他にも大名などが発行した紙幣や商人の私札も多数でまわっており、本両替や銭屋はこうした多種多様な貨幣の両替を業務の一つとした。もっともその手数料は近世後期には安くなり、両替額の0.05%以下となっていた。その原因は貨幣総量が増加して、貨幣改鋳後などをのぞいて通常は金銭相場が低く安定していたことにある。また経済観念の発達した大坂では、素人でも商品代価に金を受け取って銀や銭でおつりをわたすような両替行為をふつうにやるようになり両替手数料の値下げ競争がおこったこと、またちょっとした商人なら本両替か銭屋のお得意さんとなって預金をして、現在の小切手にあたるような銀目の手形を発行し、それが広く流通したたるに現貨幣の両替行為の必要性が減ったということもあると思う。

いずれにしても貨幣両替はそれほどもうかるものではなかった。貨幣の先物取引もあったが、これも通常は大利があるようなものではなかったと考えている。